カジュアルな神様

カジュアルな神様

あけましておめでとうございます。
今年も初詣は地元の神社に。いつも引くおみくじは末吉で、何事も慎重に行うこと、自分から率先して動いてはだめです、というような消極的な内容だった。去年も似たような感じだったような気がする。もし大吉だったら財布に入れて持ち歩いているはずだし。

今回特にそう思ったわけではなく、ここ数年ずっと気になっているのだが、お爺さんお婆さんではなく、中年や若い人たちが鳥居をくぐる前にきちんと一礼をしてくぐったり、賽銭箱にお金を入れたあと「二礼二拍手一礼」をしっかりやっている。昔はそんなにきちんとしていなかったんじゃないか。もっとパンパン、ピョコってな感じで、さっさと済ましていたと思う。お参りだって時間がかかって仕方がない。なんだか型にはまっているというか、マナー教室の見過ぎというか。

なんというか神様にへりくだりすぎているような、そんな違和感を感じている。昔は神様ももう少し身近な存在ではなかっただろうか。

最近、萱野茂という人が書いた「アイヌの碑」という本を読んだ。1980年の本だから40年以上前の本。アイヌの伝統と近世における迫害の歴史が描かれている。アイヌは主食として鮭を獲って暮らしていたのだが、あとから入ってきた和人が作った法律で漁が禁止されてしまう。なんと乱獲による鮭の保存が目的だという。しかし、元々アイヌの人々は生活に必要な分しか魚を獲ることはなく、むしろ商業用に乱獲をしているのは和人たちであった。その商売を邪魔されないように法律を作ったのだ。「主食」を奪われるということはアイデンティティに関わること。後世のアイヌにとっても鮭を獲るという行為そのものが抵抗の象徴だったそうだ。

その本の中に、アイヌにとって神は人間と対等の存在であった、という記述がある。例えば、災害にあったり、人が死んだりすると、アイヌの人々は神様を叱るんだそうだ。いつもあんなにお供えをしたり祈りを捧げたりしているのになぜ今回は守ってくれなかったのだ。なぜ家族を死なせたのか。どうしてくれるんだ。と言って叱るのだそうだ。日本人にとっての神にもそういう立ち位置だったことがあるんじゃないか。

宗教というのはもう少しカジュアルで生活に密着したものであるべきじゃないのか。あの統一教会じゃないけどあまり畏れ多いものになってはいけないのではないか。僕も来年の正月に初詣の時、もしも今年がイマイチの年であったら「どうして去年は助けてくれなかったのだ、ちゃんとお参りもしたのに、どうしてくれるんだ。」くらいの少し威張った感じで行こうかと思う。

アイヌの碑

去年10月の終わりにオンラインショップをオープン以来正直苦戦しているが、そんなに簡単なことではないとも思っているので、引き続き色々試しながらやってみたい。最近サイトをアメリカからも購入できるようにしたし、今年は自分のサイトだけでなく「Reverb」や「eBay」などでも販売していこうと考えている。商品も師匠の店の委託商品も販売できるようにして広げていきたい。あとはSNSなどで地道にアクセスを増やしていく。仕入れも頑張りたいので、ぜひ弾いていないギターが押し入れにある方がいらっしゃれば活躍の場を与えられるよう、お声がけください。

ところで昨年はたくさんの好きなミュージシャンの訃報があった。直近では年が明けてアイルランドのアコーディオン奏者、シェイマス・ベグリーさんが亡くなったとのニュースが。こういう素晴らしい音楽が聴けなくなるということは本当に寂しいことだと思う。

こちら比較的最近の、スティーブ・クーニーと一緒に演奏する映像。最初の歌ものも味がある。2番目はアコーディオンの演奏、ポルカを演奏したら右に出る人はいないと思う。フロントが剥き出しのアコーディオンがかっこいい。

□Séamus Begley & Steve Cooney - Bánchnoic Éireann Ó | Fleadh 2020 | TG4

□'Begley and Cooney' from www.tunesinthechurch.com

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