今日5月2日は忌野清志郎の命日。
亡くなったのは2009年だからもう17年前ということになる。享年58歳。僕は今年59歳なのでもう追い越してしまった。実感がない。
僕は中学生の時に静岡文化会館でRCサクセションのライブを観に行った。
当時の有名なエビソードに「静岡ビニ本事件」というのがある。1981年2月27日に静岡市民文化会館で行われたRCサクセションのライブ中に客席からステージに投げ込まれたビニ本を清志郎が客席に向けてページを開いてみせびらかしたところ、客席にいた教育委員会のおばさんによって告発され、その後予定していた12月のライブがキャンセルされる、という事件があったとのこと。これにたいして清志郎は「静岡のみかんなんて硬くてすっぱくって食えたもんじゃないぜ、みかんはやっぱし愛媛で決まりだぜ!」とか「もう静岡なんか行ってやらないぜ!」と言って怒ったらしいが、その後1983年、1986年にもライブで来ているというから、本気で怒ったわけではないらしい。
僕が行ったライブははたして1981年だったのか、よく覚えていない。14歳でコンサートに行くのを許可されたのだろうか。しかし「中学生のとき初めて行ったロックコンサートだった」という記憶があるのできっとそうなのだろう。
当時、兄さんの部屋にはでっかい「ラブソディ」のポスターが貼ってあった。これだ。
そして、当時新しく出たアルバム「PLEASE」を静岡のレコード屋すみやで買ってきた。一曲目のダーリン・ミシンから夢中になって聴いた。そして「赤いコールテンのズボン」が欲しくなったものだ。今だったなら「赤いコーデュロイのバンツ」と言わなければならないのであろう。
そして別冊宝島の「愛しあってるかい」というムックを熟読していた。
この本は1981年の発売とのこと。僕のRCに関する知識の8割はこの冊子からのものだ。この本に、RCサクセションというバンド名は、「ある日作成しよう」という語呂あわせで名付けられた、と書いてあったが、ウィキぺディアによれば違うようだ。
当初RCサクセションはフォークグループだった。1970年シングルを発売しデビューしてからしばらくはアコギを抱えていた。1975年に名盤「シングルマン」を発売し、すでに「フォーク」というジャンルからははみ出していたようには思うが、全く売れず、バンド活動は停滞。しかしその後、やはりフォークグループだった古井戸の仲井戸麗一が加入した1978年から、ガラッとバンドの音楽性が変わる。エレキギターに持ち替え、髪を逆立て派手な化粧をして、ロックンロールバンドとなった。
この変化は、「売れたかったから」というのが理由だったようだ。当時、清志郎には結婚したい相手がいて、その父親に結婚を許してもらうためには売れるしかない、と考えていたようだ。
なんとなく思うのは、「シングルマン」を制作したとき、こんなに素晴らしいアルバムを作ったのになぜ売れないのか、とほとほと困惑し、失望したのだろうと思う。その直後にシングルとして発売された「わかってもらえるさ」という名曲があるが、その歌詞でも「この歌の良さが、いつかきっと君にも、わかってもらえるさ」と歌っている。それが本心であったのだと思う。こちらは95年の映像。もうRCでは無いが、ほぼオリジナルに近いアレンジ。
「ヒッピーに捧ぐ」や「スローバラード」のような名曲が収録されたアルバムが全く売れず、発売中止に追い込まれるのだから。「シングルマン」をめぐってはプロダクションとの契約問題など様々なトラブルもあって、そういうことにも辟易としたのだろう。そういう状況に対して、それだったら、派手な衣装で化粧して、ドカドカうるさいロックンロールバンドをやるしかねえぜ、と開き直った、というところなのではないだろうか。
この変化について、ティラノサウルスレックスがTREXに変化したことや、ポール・ウェラーがJAMを解散してスタイル・カウンシルを結成したことなどを連想したりもする。しかし改めて初期から後期まで聞いてみると、初期のRCサクセションからRC解散後のソロ時代にかけて音楽性は何も変わっていないようにも思う。
こちらは初期のRC。今聞くとロックだ。すでに「ガッタガッタ」と歌っている。一貫している。
こちらは、死の一年後、坂本龍一がラジオ番組で喋っている動画。「いけないルージュマジック」の元ネタはTREXであったこと、あのPVのお札は全部本物だったことなどを懐かしそうに語っている。なぜ最後のイマジンがかからないのかは不明だが。
また矢野顕子とのデュエット「ひとつだけ」を聞いて「なんて良いんだろう」と感動したりしているのも面白い。でも確かに良いのだ。
「ひとつだけ」
離れている時でも
僕のこと忘れないでいてほしいよ
ねえ おねがい
悲しい気分の時も
僕のことすぐに 呼びだしてほしいよ
ねえ おねがい
ここの歌詞が心に染みる。