7月の28日にデキシーズのニューアルバムが出るという。
すでにオフィシャルサイトでは豪華特典付き過ぎのたくさんのバージョンのパッケージが売られている。もちろんどれかは購入する予定だ。やはりTシャツは欲しい。
9月にはイギリス・アイルランドでツアーも予定されているようだ。すばらしい。
僕は高校生ぐらいの時からのリアルタイムのファンであった。レコードも目にとまったものは全て買った。これがコレクションなのだがこんなに持っている人なかなかいないのではないかと思う。ただ正直言ってコアなファンはほとんどいないと思われ、市場価値というかオークション的な価値は全然無いのだろうと思う。
そもそも僕がアイルランドの音楽が好きになったきっかけは間違いなく彼らである。彼らの音楽は決してアイリッシュではない。しかし曲のネーミングや歌詞、アルバムジャケット(1stアルバムのジャケットはスーツケースを抱えたアイルランドの少年の写真だったり、ティン・ホイッスルを持ったケビン・ローランドだったり)から、何から何までアイリッシュな雰囲気を醸し出していた。
デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズというバンドは知らなくてもあの全米No.1ヒット曲「カモン・アイリーン」を知らない人は、若い世代を除けば、ほとんどいないでしょう。この曲は82年の6月にリリースされている。ボーカルのケビン・ローランドは1953年生まれなので、その時すでに30歳だった。これが売れなかったらもう音楽をやめる決意をしていたそうだ。この曲のクレジットは、ケビン・ローランド、トロンボーンの「ビッグ」ジム・パターソン、ギターのビリー・アダムスの3人によって書かれた、とされているが、ケビン・ローランドは後に、結成時のメンバーであったケビン・アーチャーにアイディアをもらったとも話している。また、”アイリーン”は子供に頃に好きだった実在のモデルになった女性がいる、という話もあれば、特定のモデルがいるわけではなく、決して手を出してはいけないカトリックの清楚な女性をイメージして歌詞を書いた、というインタビューもある。なんといっても全米一位である。マイケル・ジャクソンの「ビート・イット」を抑えての一位だったのだという。すごいことだ。
デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズは1978年にイギリスのバーミンガムで、上記アーチャーとローランドの二人のケビンによって結成された。バンド名は、当時ノーザンソウルの集まりで朝まで踊るために必要だったデキストロ・アンフェタミンの製品名デキセドリン(Dexedrine)が由来とのこと。なんとも不良っぽい。スペシャルズがすぐそばのコベントリーで77年に結成されているので、近い存在だったろうと思う。デキシーズのファーストアルバムの一曲目「バーン・イット・ダウン」のイントロ、ラジオからディープパープルの次にピストルズがかかり、その後スペシャルズの曲が流れているところでラジオのスイッチを切って曲が始まる、というロックの価値の変遷みたいなイントロなのだが、彼らにとってスペシャルズは仲間でありライバルであったのだろうと思う。テリー・ホールのお葬式にケビンは参列しただろうか。
ちなみにこの「バーン・イット・ダウン」という曲、サビのコーラスでオスカー・ワイルドやベケット、ショーン・オケイシーなどアイルランド作家の名前を連呼して、お前ら全く興味ないだろう、何にも知らないくせに、黙っとけ、みたいな歌詞なのだが、ちゃんとブレンダン・ビーハンが入っているところが嬉しいし、エドナ・オブライエンのような現代の作家も入っていて、ケビンが文学少年だった、ということがよくわかる。
バンドは最初二人のケビンだけだったが、ソウルミュージックをやるためにホーンセクションを中心にメンバーを集め、その中には後のケルティック・ソウル・ブラザーである「ビッグ」ジミー・パターソンがいた。ケビン・ローランドはアイリッシュ系、ジムはスコティッシュ系だったのでそう呼び合ったのだという。そうして作った1980年のファースト・アルバム「サーチング・フォー・ザ・ヤングソウルレベルズ」(なんとかっこいいタイトルか!!)の中の「ジーノ」がイギリスで大ヒットとなる。その頃の貴重な動画。髪型がすごい。
次のアルバムの準備に取り掛かるとケビンはストリングスが欲しいと言い出し、創設メンバーのケビン・アーチャーのツテでヘレン・オハラを連れてくる。彼女は本名をヘレン・べビントンと言うのだが、アイルランド風にするためにローランドがオハラ、と呼ばせたらしい。ちなみに彼女が一緒に連れてきた二人のヴァイオリン奏者、スティーブ・ショーとロジャー・ハックルもスティーブ・ブレナンとロジャー・マクダフと名乗らせ、彼ら三人組を「エメラルド・エクスプレス」と名付けたそうだ。折々のバンドメンバーのコスチュームもそうだが、ケビン・ローランドはそういう芝居がかった演出が好きなようだ。
そうして作られた1982年のセカンドアルバム「トゥー・レイ・アイ」は、カモン・アイリーンの大ヒットによって大成功し、バンドは一躍有名になる。しかし、ストリングスを中心としたアレンジになってくると、ホーンのメンバーたちは自分たちの出番が少なくなることに不満を持ちやめて行ってしまう。新たなメンバーとなったギター・バンジョーのビリー・アダムズとヘレン・オハラ、そしてケビンローランドがバンドの中心メンバーとなり、3枚目のアルバム「ドント・スタンド・ミー・ダウン」を1985年にリリース。
しかしこれがまたマニアックなレコードで、アルバムジャケットは全員ブルックブラザーズのスーツ姿、曲は10分を超えるような長さ、メンバー同士の会話を曲に挿入していたり、ある意味アバンギャルドなアルバムであった。当然売上は上がらず、バンドとしてはそのままトーンダウンし解散してしまう。当時高校生だった僕は何度もレコードに針を落とした大好きなアルバムではあったが。
こちらの動画、他の曲もそうだが、曲の最初の方の音量のレベルがすごく低くて、だんだん音が大きくなってくる。常識では考えられないミキシングである。あらゆる意味で実験的。
1987年のバンド解散後、ケビンは88年にソロアルバムを一枚出すが、そのあと1999年まで姿を消す。その約10年の間、うつ病と薬物依存、経済的な問題を抱え、苦しい日々を過ごしたという。インドの新興宗教にものめり込んでいたようだ。1994年には施設に入って8ヶ月のリハビリを行っている。そして、その後1999年の復帰アルバム「マイ・ビューティー」がすごかった。禿頭のまま化粧をして女装してスカートをめくってパンツを見せるアルバムジャケットをみた時は目を疑った。床に転がっていたCDジャケットを見た母親が「何コレ気持ち悪い」と言ったのを今でも覚えている。とはいえ、内容は素晴らしいものだった。全てカバー曲だが、ホイットニー・ヒューストンのヒット曲「The Greatest Love Of All」などは歌いながら自分で感動して泣いてしまったそうだ。
こちらの動画、その「マイ・ビューティー」の2020年のリイシューに際して改めて作られたビデオだというが、当時キモイなどとめちゃめちゃに叩かれたりしたが、結局彼がやろうとしたことは今の変化の先取りだったじゃないか、ということを映像化している。次の「The Greatest Love Of All」もリイシューの時のオフィシャルPV。本人は歌わない、という趣向が面白い。
その後再結成ライブなども行いながら、徐々に本格的な活動を再開し、昔のメンバーなどとも合流して2011年”Dexys”という短い名前でバンドを復活させている。2012年、2016年にそれぞれアルバムも出しているが、どちらも本当にすばらしい。特に2016年のアルバムでは、” Do Irish and Country Soul”としてアイルランドの伝統曲も演奏している。このアイディアは元々80年代のデキシーズ時代にあったようだが、それが30年後越しに実現したということらしい。
□2012のアルバム”One Day I'm going to Soar”より。急にカッコよくなっている。このオシャレ感には衝撃を受けた。
□2016のアルバム”Let the Record Show: Dexys Do Irish and Country Soul”から。なんというこの幸福感。
□こちらは当時のライブ、名曲「キャリックファーガス」。本当に素晴らしい。
最新アルバムも先行シングルのPVを見ると期待できる。1982年の全米一位の大ヒットがトラウマになり、この30年間は本当に苦しい日々だったのだろうと思う。しかしその音楽への情熱は枯れることはなかった、ということだろう。ちょっと涙が出る。
ヴァン・モリスンが最近頑固オヤジのQアノンみたいになってしまったので、僕としてはアイリッシュ・ソウル・シンガーとしては、ケビン・ローランドに頑張ってもらうしかないのではないか、と勝手に考えている。セカンドアルバムに入っている” Jackie Wilson Said (I'm In Heaven When You Smile)”をライブで歌う時、ケビンはいつも”Van Morrison said Jackie Wilson Said(I'm In Heaven When You Smile)”と曲を紹介していた。それに倣えば、”Kevin Rowland said Jackie Wilson Said(I'm In Heaven When You Smile)”である。